「老子に学ぶ」シリーズ
「老子」を読みながら、そこで学んだ事や感じた事について書いてます。
今回は 第49章です。
※本記事は「老子の解説」ではありません。あくまでも僕が読んで感じた主観的な「思うこと」を書きます。身勝手で主観的で間違った解釈が含まれている事も、当然あります。
そんな部分は、是非とも温かい目で「スルー」して頂ければ、助かります。※
Start [老子 第49章]
さて、どんな事が書いてあるのでしょうか…
聖人は常に無心にして、
百姓の心を以て心と為す。
善なる者は吾れ之を善しとし、
不善なる者も吾れ亦た之を善しとす。
徳は善なり。
信なる者は吾れ之を信とし、
不信なる者も吾れ亦た之を信とす。
徳は信なり。
聖人の天下に在るや、
歙歙焉として、
天下の為に其の心を渾ず。
百姓は皆、
その耳目を注ぐも、
聖人は皆、
之を孩にす。
老子 第49章
チョット、難解ですかね。。。
こんな意味かな…
聖人には「こだわり」の考えはないよ。
皆の意思を自分の意思とするんだよね。
皆が「善」と認めたモノを善として、
「不善」としたモノも善とするんだよね。
その人の心がけが有れば、
皆の「徳」が「善」って事になるからね。
皆が「信じる人」を信じて、
「信じられない」とされた人も信じるんだよ。
その人の心がけによっては、
皆の「徳」が「信じられる」事になるからね。
聖人が天下に向き合うときには、
ココロを穏やかにして、
こだわりを持たずに、
皆の為に、自分のココロから
好き嫌いのキモチを無くすんだよね。
だから皆はアレコレ気にして
イロイロ考えてやってみるけれど、
結局は赤ちゃんのように
扱われてしまうんだよね。
つまり
今回、僕はこの章で…
善悪の全てに
意味を見出せば
駆け引きも
無意味になる
…と言う事かな、と感じました。
最後までお付き合い頂き、ありがとうございます。