ココロにチカラを

てらさん (Terra-Sun) の 余計なお世話

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【老子 第1章】「道の道とすべきは、常の道に非ず」

新カテゴリ「老子に学ぶ」

さて、今日からはコレまでと少し趣向を変えてみます。

自分自身で勉強をしながら、そこで学んだ事や感じた事について書いてみます。

 

しばらくは「老子」を読みながら書いてみます。

まずは第1章から。

  ※本記事は「老子の解説」ではありません。あくまでも僕が読んで感じた主観的な「思うこと」を書きます。身勝手で主観的で間違った解釈が含まれている事も、当然あります。

そんな部分は、是非とも温かい目で「スルー」して頂ければ、助かります。※

 

Start [老子 第1章]

では、早速読み始めてみます。

 

さてさて、どんな事が書いてあるのでしょうか? 

道の道とすべきは、常の道に非ず。

名の名とすべきは、常の名に非ず。

名無きは天地の始め、名有るは万物の母。

故に、

常に欲無くして以てその妙を観、

常に欲有りて以てその徼を観る。

この両者は同じきより出でてしかも名を異にす。

同じきを之を玄という。

玄のまた玄、衆妙の門。

 

老子 第1章

 
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…え、っと。 んあ?

 

ゴメンなさい、正直に白状します。

まったく頭に入ってきませんでした、最初の何回かは…

諦めずに何度も読み返し、少しずつ噛み締めて、噛み砕き、何となく呑み込めた内容は、、、

 

こんな意味かな…?

 「コレが道だ」とか言うモノは、そもそも「道」じゃないよ。 「コレが名前だ」とか言うのも同じだよ。

 天地の始まりには、名前なんか無いし、名前が付けられたのなんか、モノが出来た後からの事だからね。

だから、欲を持たずに居れば「道」の微妙で奥が深い様子が判るだろうし、欲を持ってしまうと「活動やその結果」しか見えなくなるだろうね。

「微妙で奥深い様子」と「活動や結果」の両方は、同じなのに、「捉え方」の違いだけで呼び方は変わってしまう。

「同じ」だって事を 「玄」と言うけど、「玄」にもまた「玄」があったりして、コレまたホントに奥が深くてビミョーなんだよね。

 

つまり

今回、僕はこの章で…

 

 

物事を決めつけて考えないほうが良いよ。

見かけや名前や結果に惑わされずに、

色々な考え方や見方で「奥の深さ」を知ると良いよ。

 

…と言う考え方が大切なんだろうなと感じました。

 

 

最後までお付き合い頂き、ありがとうございます。